話題書『スマホ時代の哲学』 (ディスカヴァー21)に、
興味深い一節があった。
私たちは、生きていくなかで、避けがたく、
自分の中で消化しきれないような経験に遭遇することがある。
そうしたとき、そこから目をそらさず、
「どうにかこうにか」折り合いをつけてやっていくこと、
言い換えれば、わりきれない「モヤモヤ」を手放さずに、
それと向き合い続けていくことは、「主体を優しく変化させる」。
そして「それは生きる上でとても大切」 (305頁)。
これは重要なことが記されていると感じたのだが、さらに注155には、
別著『鶴見俊輔の言葉と倫理』第三部をも併せ参照、とある。
というわけで本書である。
第三部は、主には鶴見の注目する中野重治について、
そして中野を理解する手がかりとして柳田国男が論じられている。
「〈わからない〉と〈わかりかける〉のあいだ」を行き来し続ける中野や、
様々な地域の日常の身振りに注目する柳田民俗学に、鶴見は、
原体験を安易に理解しようとせずに、繰り返しそこに立ち返ることで
つねに新たな可能性を汲み取ろうとする姿勢を見出だしていたのだろう。
第三部は「日常とヴァルネラビリティ」と題されている。
ここでいう「ヴァルネラビリティ (傷つきやすさ)」とは、
そこにおいて自分自身の在りかたに方向性が与えられるプロセスとされる。
つまり、傷に向き合うことで、その人自身がかたちづくられていくのだ。
そしておそらくはこれが、先の『スマホ時代の哲学』でいう
「優しく変化する」の意味するところである。
かつて加藤典洋は次のように書いた。
外からやってきて真理を述べる“叡智の言葉”を受け入れると、
生きることが“なくなる” (「戦後後論」)。
解決しようのない問題に向き合い続けること、
自分のうちに生じた違和にこだわり続けることは、
ある種の頑固さとしなやかさを併せ持ちながら、
つど新しい自分とともに未来を切り開いていくことに
繋がるのかもしれない。
そして、そのような在りかたのうちにこそ、
むしろ「生きること」はあるのかもしれない。